「いいか、俺たちには余計なことをしている時間はない」
兎一郎は冷徹すらある響きで言った。
「義太夫の奥深さと歴史に比して、一人の人間に与えられた時間はあまりにも短い。その時間のなかで、俺たちは自分の芸道を突きつめつくし、あとにつづくものに伝えていかなきゃならない。これは、義太夫を選んだものの使命だ」
人間国宝だけど自由気ままな銀大夫師匠から、ある日三味線の腕は良くとも、変わり者な兎一郎と組むよう指示された健。師匠の言葉は絶対として、不安を覚えながら兎一郎に声をかけたが、自分が納得しないと動かない兎一郎に、何かと振り回されて……文楽に打ち込み、芸と恋に悩む若き大夫を描く物語。
これは面白かった。周囲にいる人たちがくせ者ぞろいで、下っ端な健は振り回されっぱなしなんだけど、舞台では、その人たちのすごさに、時に涙し、時に打ちのめされて、遠い遠い目標に向かっていくという真っ直ぐな男性の姿が、とても好感。
ちょいと軽いキャラのせいか、いじられてることが多く、特に銀師匠には、理不尽な怒りを向けられることもあるけれど、なんだかんだフォローしてるところをみると、愛されてるなと思います。
それにしても、健が成長していく姿は、いいなあ。登場人物の気持ちがつかめず、どうにも芯が通らない語りをしては、いろんな人に叱られるんですが、何気ない日常の中でヒントを掴んで、ぐいっと前に進む、その瞬間の描き方が素晴らしい。なんちゃらは、芸の肥やしというのは、あながち間違いでもない……というのは、ちょっと語弊がありそうだけれど、ただただ一人で稽古していても掴めないものが、文楽とは関係ない人とのやり取りで掴めたりするから、経験ってのは大事だ。
ま、師匠の女癖によって、夫婦喧嘩に巻き込まれる弟子としては、いろいろアレでしょうけど。普段たいして話をしない無口キャラ兎一郎が、結婚していたことはちょっと驚きましたが、ここもまた夫婦の……いやはや大変だ。
ちなみに、夫婦喧嘩して奥さんから逃げていた師匠を連れ戻そうと追いかけたら、帰りたくないからと都都逸勝負を仕掛けてくる銀師匠の大人気なさが好きです。この都都逸も面白かった。
師匠に追いつくという思いと、もうひとつ自分の中にある理想に届くためにと、芸に磨きをかけていたら、出会った女性に一目ぼれして……色恋沙汰から、あやうく身持ちを崩しそうになったとき、厳しくもきちっと言ってくれた兎一郎の言葉が重い。芸道とは、かくも覚悟が必要なのか。だからこそ、「道」なんだろうなあ。
稽古して稽古して、それでも掴めないものがあり、ようやくたどり着いても、また先がある。それでも極めたいと思う人の情熱に、拍手したくなるお話でした。
面白かったなあ。この人たちの語る文楽を聞いてみたくなります。っていうか、文楽は触れたことがないので、これを機に行ってみたい。
仏果を得ず (双葉文庫)
三浦 しをん
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